ニンベンがつく名字について

仲村清司

2005年08月16日 13:27


子どもの頃、「おまえの名字はどうして中村ではなく仲村なのか?」とよく聞かれた。

そのたびに「ニンベンは漢字で書くと『人偏』となり、すなわち人を意味する偏なのだ。つまりオレの家系はヒトデナシの中村より格が上だから、そうなったのだよ、フフ」と、偉ぶって答えていたのだけれど、もちろんそんなはずがあるわけない。

仲間、仲宗根といった具合にニンベンのつく姓が沖縄特有のものだと知るのは後年のことだが、その理由については知らなかった。そこでフト、このさい本格的に調べてみようという気になり、文献を読みあさると意外な事実がわかってきた。


沖縄の姓はほとんどが地名からきていて、昔はあちこちに中の字を使った地名があったらしい。ところが、17世紀の後期、第二尚氏・尚益の世子・尚貞が中頭中城間切を世襲し、中城王子を称するのにともなって、姓や村名に「中」の字を使用することが禁止されたのだそうだ。


早い話が、「中は高貴な字であるからして、王家以外の者が使ったらイカンよ」という布令を出したというわけですな。これによって、浦添の中間は仲間、沖縄市の中宗根は仲宗根といった具合に改称させられたという。

沖縄に「仲」が多いのはつまりはお上の布令でそうなったわけで、わが仲村家は格が上どころか、ホントは格下だったかもしれないのである。


事実を知ってなんとなく損をしたような気分になったが、それはそれとして、調べていくうちにさらに興味深い史実にぶちあたった。

沖縄にはおよそ1500種類の姓があるといわれているのだが、そのほとんどが内地にない異国風の珍しい姓ばかりで、真栄田・真栄里・仲宗根のように3文字の姓が際立って多いのが特徴。一説には沖縄の姓の半数近くを3文字姓が占めているといわれる。


ではなぜこうした姓が生まれにいたったかというと、これがなんと薩摩藩の琉球統治政策と深く関係しているらしい。


琉球が薩摩藩の侵攻によってその属国になるのは1609年。それ以降、薩摩藩は「異国」を従えていることを権威づけるために、琉球が外国であることを演出するさまざまな政策を遂行する。手始めに服装や髪型を異国風に装わせ、1624年になると今度はさらに「大和めきたる名字」の使用禁止を令達するのである。


これによって、たとえば東という姓は「比嘉・比謝」に、福山が「譜久山」、船越は「富名腰」と表記変えされ、3文字姓が増えたといわけなのだ。

したがって、沖縄の元々の姓は日本のそれに近いものだったかもしれず、沖縄の歴史家・真境名安興などは、沖縄の姓は日本の姓に近かったのに、薩摩藩の政策によって「異国的」なものに改称させられたという論文を発表しているのである。


もっとも、別の文献では「大和めきたる名字」の使用禁止令は占領者としての意識から生み出されたものの、実行されなかったのではないかとも書かれているので、はっきりしたことはわからない。


ただいずれにしても、名字をいじろうとしたことは事実で、そのことを考えるといつの世も権力というのは実に姑息な手段を使うものよと痛感したしだい。ともかくも、姓ひとつとっても沖縄は理不尽な歴史に翻弄されてきたわけである。今回はいつになく真面目な展開になってしまったが、まっ、いいか⋯⋯。