
2005年02月10日
沖縄人はどこからきたのか?
僕の顔は四角ばってゲタのような顔つきをしている。しかもきわめて濃ゆい顔つきである。
さすがウチナーンチュ二世というのか、顔だけはきっちりウチナージラー(沖縄的な濃い顔)が遺伝した。僕が生まれ育った大阪にはこういう顔が少なかったために、ヒジョーに目立った。子どもの頃は「ガイジン」というあだ名がついたほどである。
と、ここでフト思い出したのだけれど、韓国の釜山にいったとき、食堂のオバチャンに「あんたはどこからきたのか」と聞かれたことがあった。
「日本の沖縄からきました」というと、そのオバチャンは顔をしかめ「日本人だと? うそをつけ、アンタはフィリピン人だ。顔でわかる」と断定した。
そのときウチナージラーというのは、よほど日本人離れした顔なのであるなあとつくづく実感したのだが、最近の研究によるとこれが事実であることが明らかになりつつあるらしい。
これまでの研究から、沖縄人の直接的な祖先は具志頭村で発掘された化石人骨「港川人」(1万8000年前の人類で縄文人の先祖)と考えられているのだが、そのルーツはインドネシア・ジャワ島の「ワジャク人」だといわれている。
ではそのワジャク人はどこからきたのかというと、なんと幻の大陸「スンダランド」であったそうな。スンダランドとは氷河期の頃にあった巨大な大陸のことで、当時はインドシナ半島、マレー半島、東南アジアの島々が陸続きだったという。つまり、ここでワジャク人たちの祖先が暮らしていたというのである。
スンダランドはその後の地球温暖化によって海水面が上昇し、地表面積の半分が水没してしまうのだが、このときスンダランドを脱出した連中がのちのアジア人の原型を形作ることになる。
まず島伝いに海を渡って東進した一陣はニューギニアやタスマニア地方に住み着くことになる。そして、北進したグループはフィリピン諸島に渡海。このフィリピンからさらに一部の人々が黒潮に乗って琉球諸島に流れ着き、つまりこれらの人が港川人になったというわけなのだ。
こうなると釜山のオバチャンが指摘したように、僕のルーツは元はフィリピンといういい方もできてしまうのである。
しかしまあ、自分を日本人と規定するよりも、太平洋種族と規定する方が自分の精神の奥底が広がっていく気がして、なんとなく胸のすく思いがする。
ついでにいうと、琉球諸島からさらに黒潮を利用して薩摩に渡った一族もいたという。鹿児島の人たちは、人類学上では「薩摩型」と呼ばれるほどに顔の濃いタイプが多いのだが、このことから沖縄人と薩摩人はもともとのルーツは同じだったことがわかったのである。
歴史小説の大家、故海音寺潮五郎氏は「薩摩の隼人族というのは、東南アジアの民族が黒潮に乗って鹿児島に渡ってきた人々である」と分析していたが、はからずもそのことが専門家の研究で裏付けられたことになる。
しかしながら、わが祖先たちは野山を駆ける狩猟生活をしていたので、しだいに手足が大きくなって胴長短足という特徴も持つようになった。
沖縄人が足が短いのはそのためなのだが、もはや野山を駆ける必要がない時代になったにもかかわらず、なぜ進化しないのか。短足というあまりありがたくない特徴も見事に遺伝してしまった僕としては、ヒジョーに納得がいかないのである。専門家はこの点、よーく研究するように。
さすがウチナーンチュ二世というのか、顔だけはきっちりウチナージラー(沖縄的な濃い顔)が遺伝した。僕が生まれ育った大阪にはこういう顔が少なかったために、ヒジョーに目立った。子どもの頃は「ガイジン」というあだ名がついたほどである。
と、ここでフト思い出したのだけれど、韓国の釜山にいったとき、食堂のオバチャンに「あんたはどこからきたのか」と聞かれたことがあった。
「日本の沖縄からきました」というと、そのオバチャンは顔をしかめ「日本人だと? うそをつけ、アンタはフィリピン人だ。顔でわかる」と断定した。
そのときウチナージラーというのは、よほど日本人離れした顔なのであるなあとつくづく実感したのだが、最近の研究によるとこれが事実であることが明らかになりつつあるらしい。
これまでの研究から、沖縄人の直接的な祖先は具志頭村で発掘された化石人骨「港川人」(1万8000年前の人類で縄文人の先祖)と考えられているのだが、そのルーツはインドネシア・ジャワ島の「ワジャク人」だといわれている。
ではそのワジャク人はどこからきたのかというと、なんと幻の大陸「スンダランド」であったそうな。スンダランドとは氷河期の頃にあった巨大な大陸のことで、当時はインドシナ半島、マレー半島、東南アジアの島々が陸続きだったという。つまり、ここでワジャク人たちの祖先が暮らしていたというのである。
スンダランドはその後の地球温暖化によって海水面が上昇し、地表面積の半分が水没してしまうのだが、このときスンダランドを脱出した連中がのちのアジア人の原型を形作ることになる。
まず島伝いに海を渡って東進した一陣はニューギニアやタスマニア地方に住み着くことになる。そして、北進したグループはフィリピン諸島に渡海。このフィリピンからさらに一部の人々が黒潮に乗って琉球諸島に流れ着き、つまりこれらの人が港川人になったというわけなのだ。
こうなると釜山のオバチャンが指摘したように、僕のルーツは元はフィリピンといういい方もできてしまうのである。
しかしまあ、自分を日本人と規定するよりも、太平洋種族と規定する方が自分の精神の奥底が広がっていく気がして、なんとなく胸のすく思いがする。
ついでにいうと、琉球諸島からさらに黒潮を利用して薩摩に渡った一族もいたという。鹿児島の人たちは、人類学上では「薩摩型」と呼ばれるほどに顔の濃いタイプが多いのだが、このことから沖縄人と薩摩人はもともとのルーツは同じだったことがわかったのである。
歴史小説の大家、故海音寺潮五郎氏は「薩摩の隼人族というのは、東南アジアの民族が黒潮に乗って鹿児島に渡ってきた人々である」と分析していたが、はからずもそのことが専門家の研究で裏付けられたことになる。
しかしながら、わが祖先たちは野山を駆ける狩猟生活をしていたので、しだいに手足が大きくなって胴長短足という特徴も持つようになった。
沖縄人が足が短いのはそのためなのだが、もはや野山を駆ける必要がない時代になったにもかかわらず、なぜ進化しないのか。短足というあまりありがたくない特徴も見事に遺伝してしまった僕としては、ヒジョーに納得がいかないのである。専門家はこの点、よーく研究するように。
Posted by 仲村清司 at 14:04│Comments(0)
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