てぃーだブログ › 仲村清司の沖縄移住録@2018 › 2005年02月

2005年02月24日

虫を怖れる人々

いまさらながらあえていうのだが、わたくしは大阪生まれ大阪育ちのウチナーンチュ2世である。
「だからどうしたのさ?」
と、返されても困るのだけど、その大阪でも子どもの頃から沖縄料理はけっこう食べてきたのである。

いまでも「仲村さんはゴーヤーは大丈夫ですか?」「テビチは食べられますか?」などと聞かれることがあるけれど、そんなのはもちろんのこと、ナーベラー、ソーキ、ジーマミ豆腐、スクガラス、イカスミ汁もちゃんと胃袋におさめてきた。テビチ汁なんぞは週一度は必ず食べていたほどだ。

だから、バカにしちゃあいかんよといいたかったのですね。
実は僕のオバァはその昔、那覇で料理屋をやっていたので沖縄料理は得意だったのだ。
そんなこともあって、オバァは沖縄から食材を取り寄せたり、
ゴーヤーやナーベラーを自宅で栽培するなどして、せっせと沖縄料理をつくっていたのである。

親戚が伊丹市で養豚業を営んでいた関係で、豚肉料理もよく食わされた。だからいまの若い人よりはよほど沖縄の食材に親しんでいたはずだ。

だからといって、沖縄料理が好きだったかというと、そうでもなかった。
子どもの頃は胃がが弱かったせいか、沖縄料理のように油を多用する料理が苦手だったのだ。
それでも、オバァはどんな食材も油をバンバン使っておりましたな。

野菜はすべてチャンプルー、魚も沖縄風にすべて唐揚げにするかフライパンでソテーにした。
カマボコやチクワなどの練り物も必ず炒め、
さらにはどういうわけか味噌汁にも油をわざわざ垂らしていた。

余談だが、僕と同世代の人たちはやはり油入りの味噌汁を食わされていたらしい。
どうやら昔はスタミナをつけるためにこうした調理法がごくフツーに行われていたようだ。

その反動もあったのだろう。
修学旅行にいったときに食べたアジの塩焼きやわさび醤油でたべる生のカマボコは
この上なくおいしく感じられた。
同時に世の中にはこういうあっさりとした調理法があることを知った。

そうして、僕はオバァや母ににこう懇願したのだった。
「なあ、カマボコは生で食べられるんやでえ、ウチでもそうしてえやあ」
すると、彼女たちは目を丸くして、こういったのである。「そんなもん、生で食べたら虫がわくやないか。食べ物はなんでも火を通さなんとあかんのや、覚えとき」

ものが腐りやすい沖縄で育った二人は食品がバイ菌や腐敗菌がつくことを極度におそれ、
そのため沖縄式になんでも炒めることを常にしていたのである。

ついでにいうと、ウチの母は買ってきたばかりのアツアツのタコ焼きまで、
「火を通さないと虫がわくかもしれない」といって、また油を入れてフライパンで念入りに炒めていた。おそらく、オバァ以上に食べ物に対して神経質だったのでしょう。

ところが、そこまで用心したにもかかわらず、僕のお腹には虫のいることが検査でわかったのである(当時はほとんどの小学生が虫がいたけれど)。
そうして、飲まされたのがナチョーラー汁だった。これは虫下しに効くとされる沖縄産の海藻の煎じ汁で、こんなものまで沖縄式だったのだ。油ものには閉口したけれど、これだけは感謝している一品だ。

といっても、ナチョーラー汁を知っている人は少ないだろう。
つーわけで、内地出身とはいえでも、僕は皆さんよりもいろんな沖縄食を食ってきたのである。
まあ、虫下しでは自慢にはならんけどね。  

Posted by 仲村清司 at 14:59Comments(0)

2005年02月22日

暴力酒はお湯割りで封じる??

僕は学生時代からの焼酎党で、北風ビュービューのこの時季になると、もっぱらお湯割りを愛飲していた。麦焼酎なら大ぶりの梅干しを入れて、芋焼酎なら毅然としてお湯のみ。いずれにしても、このホカホカの焼酎で、焼き鳥をアテにチビチビやるのが、僕の真冬のゴールデンコースであった。

ところが、沖縄で暮らしてからはお湯割りで飲むという習慣がまるでなくなってしまった。といっても、沖縄は暖かいからというわけではない。
いろんな銘柄で試してみたけれど、泡盛をお湯で割ると独特の香りが立ちすぎて、どうにも美味しく感じられないのである。そのことを反映してか、沖縄にはお湯割り文化というものがない。
と思いきや、そうではなかったようで、先日、『泡盛の文化誌』(萩尾俊章著・ボーダーインク刊)を読んでいたら、昔は「湯酎(ゆちゅう)」という飲み方があったことが記されていた。

これは文字通り泡盛のお湯割りのこと。記述によると、明治4年に鹿児島出身の人が著した本の中に、琉球では泡盛がよく飲まれていて「之ヲ湯ニ和シテ飲ム湯酎ト名ク」とあるのだ。琉球でもお湯割りがかなり普及していたことを示す記録だが、よく読むとどうも好んでそういう飲み方をしていたのではないらしい。

当時、「酔狂をして人に害をなすものは士族は寺に蟄居、役人は免職、農民はムチ叩きもしくは入牢」という罰則規定があり、そのために悪酔いしにくいお湯割りが流行ったのではないかと著者は推測しているのである。

いずれにしても、当時は、こういうお触れをださなければならないほど、多くの人々が荒れた飲み方をしていたことは確かなようだが、ちょうどその頃は、琉球処分前夜で政府の圧力が高まっていた時期と重なる。なので、人々の心もささくれだって、つい飲み過ぎて暴力酒に走ったのかもしれない。

ところで、別の古文書には、この頃から市場の商人はことごとく女ばかりで、しかもよく働き、「夫一人養い切れないものは女ではない」という気概にあふれていたという記録が残っている。
つまりは、変転する時代にあって、男はやけ酒を飲んでくだをまき、女はそんな男どもを頼ることなく見事に時代に対応していったというわけだ。

沖縄の男と同じ遺伝子を持つ自分としては、妙に反省させられる記録だが、世情によって酒の飲み方まで変わるというのは実に興味深い。
ま、ともかくも、せめて暴れ酒にならないよう正しい飲み方をしようね、飲んべえ諸君!  

Posted by 仲村清司 at 23:12Comments(0)

2005年02月16日

いざ試さん、 ムハハ的豆腐製造実験

大阪弁でいうと「めっちゃ、ええもん」をスーパーの生鮮売り場で発見した。なんと、呼べばいいのかわからんけれど、一言でいえば「ゆし豆腐キット」になろうか。
ゆし豆腐とは内地でいう、いわゆる「汲み上げ豆腐」。ただし、沖縄の豆腐は生絞り法でつくられたコクの深い島豆腐だから、まことにもって美味美味美味、なのである!


といっても、その「ゆし豆腐キット」はきわめてシンプルで、500ミリリットルのペットボトルに豆乳が入っているだけ。なので、やや黄味を帯びた牛乳みたいな感じがする。正直な話、最初これをみたときは「なんで、こんなとこに牛乳があるの?」と勘違いしたほどだ。

しかし、よく注意してみると、キャップのところにニガリ入りの透明の液体袋がついているのがわかる。ここにいたって、島豆腐偏愛主義者(私のことです)は「おお、なるほど」と思わずアゴをさすりながら「ふむふむ」となるのであるな。

豆腐は、温めた豆乳にニガリをうって、ふわふわと浮かび上がってきたものを型に入れて固めるとできあがる。早い話がゆし豆腐はその固める前のフワフワ状のものなのだ。

ちなみにニガリとは、「海水を煮詰めて精製した後に残る母液」のことで一種の凝固剤と考えればいい。つまりこの商品はペットボトルの中身を鍋に入れて温め、液体袋を入れればいつでもできたてのゆし豆腐ができる仕掛けになっているのである。しかも、調理時間は5分程度。だから、料理嫌いのわが古女房でもいとも簡単にできてしまうというわけだ。

さっそく購入して試してみた。するとどうだ。ニガリを入れると、ぐつぐつ煮えた豆乳がみるみる固まり、ゆし豆腐が浮かんでくるではないか。まあ、そうでないと困るのだが、なんというか、化学の実験をしているようで、なんともムハハハ的で楽しいのである。一方で、豆腐がこんなに簡単できてしまうというのにも驚いたりした。

その意味で、この商品は誠にスグレモノなのだが、日持ちするというのも特徴。だから、ゆし豆腐ファンの観光客のお土産にもなりそうだし、野外料理でも重宝してくれそうだ。

しかし、つくりながら思ったのだけれど、これは子どもたちに使わせたい商品なのである。やらせればきっと仰天するに違いないし、もしかするとこの新鮮な感動が琴線にふれて「見ていろ、僕は日本一の豆腐職人になってみせるからな!」と、東の空に向かって叫ぶ子もでてくるかもしれないではないか。

まあ、いまどきの子どもはそんなに単純ではないかもしれないけれど、少なくとも、ふだん食べているものがどういう過程を経てできるのかは知っておくべきだと思うのだ。ま、お味の方もグッドですから、とにもかくにもぜひとも親子でお試しいただきたい。  

Posted by 仲村清司 at 17:21Comments(0)

2005年02月10日

沖縄人はどこからきたのか?

僕の顔は四角ばってゲタのような顔つきをしている。しかもきわめて濃ゆい顔つきである。
さすがウチナーンチュ二世というのか、顔だけはきっちりウチナージラー(沖縄的な濃い顔)が遺伝した。僕が生まれ育った大阪にはこういう顔が少なかったために、ヒジョーに目立った。子どもの頃は「ガイジン」というあだ名がついたほどである。

と、ここでフト思い出したのだけれど、韓国の釜山にいったとき、食堂のオバチャンに「あんたはどこからきたのか」と聞かれたことがあった。
「日本の沖縄からきました」というと、そのオバチャンは顔をしかめ「日本人だと? うそをつけ、アンタはフィリピン人だ。顔でわかる」と断定した。

そのときウチナージラーというのは、よほど日本人離れした顔なのであるなあとつくづく実感したのだが、最近の研究によるとこれが事実であることが明らかになりつつあるらしい。
これまでの研究から、沖縄人の直接的な祖先は具志頭村で発掘された化石人骨「港川人」(1万8000年前の人類で縄文人の先祖)と考えられているのだが、そのルーツはインドネシア・ジャワ島の「ワジャク人」だといわれている。

ではそのワジャク人はどこからきたのかというと、なんと幻の大陸「スンダランド」であったそうな。スンダランドとは氷河期の頃にあった巨大な大陸のことで、当時はインドシナ半島、マレー半島、東南アジアの島々が陸続きだったという。つまり、ここでワジャク人たちの祖先が暮らしていたというのである。

スンダランドはその後の地球温暖化によって海水面が上昇し、地表面積の半分が水没してしまうのだが、このときスンダランドを脱出した連中がのちのアジア人の原型を形作ることになる。
まず島伝いに海を渡って東進した一陣はニューギニアやタスマニア地方に住み着くことになる。そして、北進したグループはフィリピン諸島に渡海。このフィリピンからさらに一部の人々が黒潮に乗って琉球諸島に流れ着き、つまりこれらの人が港川人になったというわけなのだ。

こうなると釜山のオバチャンが指摘したように、僕のルーツは元はフィリピンといういい方もできてしまうのである。
しかしまあ、自分を日本人と規定するよりも、太平洋種族と規定する方が自分の精神の奥底が広がっていく気がして、なんとなく胸のすく思いがする。

ついでにいうと、琉球諸島からさらに黒潮を利用して薩摩に渡った一族もいたという。鹿児島の人たちは、人類学上では「薩摩型」と呼ばれるほどに顔の濃いタイプが多いのだが、このことから沖縄人と薩摩人はもともとのルーツは同じだったことがわかったのである。
歴史小説の大家、故海音寺潮五郎氏は「薩摩の隼人族というのは、東南アジアの民族が黒潮に乗って鹿児島に渡ってきた人々である」と分析していたが、はからずもそのことが専門家の研究で裏付けられたことになる。

しかしながら、わが祖先たちは野山を駆ける狩猟生活をしていたので、しだいに手足が大きくなって胴長短足という特徴も持つようになった。

沖縄人が足が短いのはそのためなのだが、もはや野山を駆ける必要がない時代になったにもかかわらず、なぜ進化しないのか。短足というあまりありがたくない特徴も見事に遺伝してしまった僕としては、ヒジョーに納得がいかないのである。専門家はこの点、よーく研究するように。  

Posted by 仲村清司 at 14:04Comments(0)

2005年02月03日

悶絶苦悶のうるさい朝

寝不足が続いている。といっても、睡眠障害というわけではない。毎晩遅くまで仕事をし、そのあとくーすBARに出勤しているので、大人としては恥ずかしいぐらい寝付きはいいのだ。

問題は寝覚めである。僕の起床時間は8時半。が、ここ3週間ばかしは、8時前に無理やり起こされる日が続いているのだ。というのも、ウチのマンションのすぐ裏手で工事が始まり、朝8時になると、「ダダダダダ」と、耳をつんざくような掘削機の音がそこらじゅうに響き渡るのである。

ヒトの睡眠リズムは個々人の長い間の習慣によって決まる。僕の場合、あと30分寝られれば、にんまり笑顔のお目覚めとなるのに、この機銃掃射のような音のためにいきなり熟眠状態が断ち切られ、このところ、どうにも寝た気がしない朝を迎えているのである。

赤ちゃんがこういう起こされ方をすると、大声で泣き出すものだが、向かいの家にはその赤ちゃんがいたりする。そう、掘削機の音に続いて、今度は赤ちゃんがビャービャー泣きわめくのである。
まあ、それでも半寝状態の中年オジサン(僕のことです)は、なんとか二度寝の体制に入ろうとする。が、その寝入りばなを襲うように、お次は「いしーやーきいもー、おいしいおいしい、やーきいもー」と、焼き芋屋の車が回ってくるのであるな。

そもそも、朝っぱらから焼き芋を売りに来るというのが僕には理解できないのだが、
やっかいことに、この音に条件反射のように反応するヤツがいる。階下の飼い犬である。
こいつが「ワンワンワンワン」と、焼き芋の車に向かってしつこく吼えまくり、うるさいうるさい。

しかしそれでも、中年オジサンは頭から蒲団をかぶって眠ろうとする。が、ここで聞こえてくるのが「チャララチャンチャンチャランララン♪♪」のメロディでお馴染みのゴミの回収車である。
中年オジサンは蒲団の中で「うーむ」とつぶやきつつ、今度は妻のふとんもかぶって二重防音体制を敷く。が、敵はすぐそばにいたりする。妻のがなり声である。

「あんた、生ゴミの日よ! ナ・マ・ゴ・ミ! 生ゴミだしといて!」
こうして、寝ぼけマナコをパンパンにはらした中年オジサンはもぞもぞと寝床を抜け出し、
「チャララチャンチャン♪♪、ワンワン、いしーやーきいもー、ビャービャー、ダダダダダ、あんた、生ゴミったら生ゴミ」
という、あたりの騒音を一身に背負い込むようにして、その場で呆然とへたり込むのである。
明日もあさってもこんな朝が待ち受けている。  

Posted by 仲村清司 at 15:51Comments(0)