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2006年10月31日

会津若松ちんたら紀行(その4)

*この旅ルポ、前回で終わったと思った読者の皆さん。実は続きがあったのです。
忘れた頃にやってくる会津若松ちんたら紀行、ごゆるりとお目通しあれ。

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旅の最終日に会津若松市内に入った。ここは江戸時代、松平二十三万石の城下町として栄えた街で、鶴ケ城をはじめ多くの史跡が残っている町として知られている。

あてもなくそこらを散策していても、いたるところに歴史的建造物や古い町並みがごく当たり前のように残っているので、歩きながらでも町の歴史の重みを肌で十分に感じることができる。

その会津若松は、新選組に幕末以来、肩入れしている土地。NHK大河ドラマが「新選組!」が放送される前から博物館や歴史館などでその関連の催し物やイベントが行われている。

新選組といえば、幕末の京都に彗星のごとく登場した史上最強の剣客集団だが、周知の通り、彼らが活躍した舞台は京都だけでない。鳥羽伏見の戦いで敗れた後、幹部の土方歳三や斉藤一などはこの会津まで転戦している。つまり、この会津若松も戊辰戦争の決戦場になったというわけだ。

市内、愛宕山中腹にある天寧寺には土方歳三が建立したといわれる近藤勇の墓がある。近藤の首は板橋で処刑されたあと、京都で晒されるのだが、その後は誰かに持ち去られ、所在は不明となっている。
ドラマではオダギリ・ジョーが斉藤一がここに持ち帰る設定になっているが、実際のところは空墓らしい。
ただし、時期的にも場所的にも土方歳三が唯一詣でることができた墓であることは確かで、戒名も藩主・松平容保より授与されてものとされている。
新選組ファンでなくても、一度は足を運ぶべきスポットというべきだろう。

また、市街地の七日町にある阿弥陀寺には斉藤一の墓があるう。斉藤一は会津周辺でゲリラ戦を展開したあと、会津藩と運命を共にし、下北・斗南に移住、さらに会津に戻り、松平容保の仲人により結婚。その後は、藤田五郎と称し、新選組のことはほとんど語ることなく、明治を生きることなる。

斎藤は自ら望んで、会津戦争の戦死者の傍らに墓を建立するよう命じ、その通りいまでも、「藤田家累代の墓」として戦死者たちとともに、すぐそれとわかる立派な墓石の下で眠っている。

「南無阿弥陀仏」と唱える。沖縄からはるばるこの地までやってきた甲斐があるというものだ。
以前は旅というと、山登りだのアウトドアだのと、なにからなにまでレジャーが中心だったが、最近は、歴史に思いを馳せながらその地をほっつき歩くというケースが多くなっている。そうして、恐るべきことに、こうした旅のスタイルがいまの僕にとっては自分でも考えられないほどしっくりくるようになっているのである。

じじむさい話ではあるが、もしかするとこういう志向性もひとつの老化現象なのかのう。なんてことを考えつつお墓参りをすませ、さて、「昼メシは何にすんべ?」ということになった。

会津名物といえば、ラーメンである。沖縄にも「会津喜多方ラーメン」の店ができているが、せっかく本場の地にきているのだから、ここは雨が降ろうが矢が降ろうが「本場・会津ラーメン!」で攻めたい。
で、さっそくタクシーに乗り、「市内で一番美味しい店へ」というと、その運転手さんは「会津若松の名物はラーメンよりカツ丼ですよ、やっぱし」と意外なことをいうのであった。
そこまでいわれれば、カツ丼路線に変更するしかない。というわけで、運転手さんイチオシの「白孔雀食堂」へ。はたして、そのカツ丼はボリューム、味、盛りつけ、どれをとっても生まれて初めて体験するシロモノであった。

なにしろ、カツは長さ20センチ、300グラムもあって、そのため丼から大きくはみ出し、しかもそれが二枚もごはんにバスンとのっているのだ。加えて色も真っ黒。なんとなれば、ここのカツ丼は卵でとじるのではなく、ソースのタレで絡めたいわゆる「ソースカツ丼」なのである。それはいいのだが、そのタレが冷や汗が出るほど猛烈に甘い。

まあ、これはこれで長い人生、一度は経験しておくべき味なのだろうが、中年オジサンの身にはちとつらい。食べながら、やっぱ、ラーメンにしておけばよかったなあと後悔ばかりが先立つ昼メシになったのであった。  

Posted by 仲村清司 at 16:07Comments(7)

2006年10月29日

緊急報告・あなたまだ食べてないの?

僕たちのサイトを管理運営してくれている、てぃーだブログの野澤さん(シーポイント代表)が、うわさをききつけて、
「我楽そば」を直々に取材してくれました。
比嘉夫妻の入魂の作品、我楽そばの真実に迫るルポ! 
必読です。
いますぐ↓をクリック

http://awazon.ti-da.net/e1108866.html  

Posted by 仲村清司 at 15:05Comments(8)

2006年10月26日

40代の母親は必読! この国の行方、この島の行方が危ない!

「菅義偉総務相は二十四日、NHKの短波ラジオ国際放送で北朝鮮による拉致問題を取り扱うよう命令する考えを明らかにした。〜
で、始まる今日の沖縄タイムス社説を読んでみてください。

http://www.okinawatimes.co.jp/edi/20061026.html#no_2

NHKの短波ラジオ国際放送なんて、知らない人の方が圧倒的に多いと思いますが、
事態はここまできています。
日の丸・君が代強制、有事法制、靖国問題、共謀罪、教育基本法改正(改悪)、
そして、今回の言論・報道の自由のあからさまな圧殺⋯⋯、

日本はいま、いつか歩んだ道と同じ方向に向かおうとしています。
戦前も同様の過程を歩みながら、国家総動員法が成立し、
軍国化に一気に突き進みましたが、
名前は違っても
同じような効力をもちうる法案(たとえば、共謀罪は本質的には治安維持法と同じです)が、
ここ数年で次から次へと成立しています。


共謀法が成立し、それが強化されていけば、こういうことを書くブログも弾圧を受けるに違いない。
「あなた、考えすぎですよ。日本が戦争なんかするはずがない」
という人がいますが、とんでもない。日本は戦時下にあるんです。
イラク戦争に関してはれっきとした参戦国じゃないですか。
だからこそ、彼の国の反米勢力から日本は敵対国として扱われたわけでしょう。
派遣された自衛隊の人たちも行くからには命を賭したに違いありません。
これを戦時下といわずしてなんというのか。

なぜ、政府はこんなきな臭い、他国から警戒されるような、
一連の法案の整備にやっきになっているのか。
そこのところを、われわれは考えないといけない。

現在の国家権力は、マスコミが大きく報道せず、かつ、国民がほとんど関心を寄せず、
でも、行く行くは言論を扇動・弾圧できるところ(それがNHKの短波ラジオ国際放送)から、
ある目的意識をもった国作りを着々と進めています。

国家のヤリクチはまことに巧妙です。
戦前のファシズムは一気に作りあげられたものではなく、
じわじわと外堀が埋められ、ふと気がつくと、身動きできない社会ができあがっていました。

そのことに率先して協力していったのが、実はわれわれ国民でした。
「満蒙は日本の生命線」という
政治スローガンが流行ったことがあります。
満蒙とは中国東北部。
他国の領土をワガモノのごとく扱う、常識では考えられない考え方が民間を中心にさらに広がり
日本人は「満州で一旗あげる」ために、猫もシャクシもそれゆけとばかりに、
続々と中国に土足で踏み込みました。
でも、国民の圧倒的多数は空き巣狙いのようなこの行動に異議を唱えず、
権力は権力で反対するものを投獄弾圧していきました。

「ファシズムは最終段階にくると、その国の国民が熱狂的に作り上げる」
これは日本のみならず、ナチスドイツや、イタリアも同じです。
 
首相のいう「美しい国」づくりで語られるこれからの日本にほしい法制度は、
常識で考えれば、誰が考えても「徴兵制」です。

名前はどうなるかわかりませんが、かりに、「徴兵制」がしかれ、戦時体制下に入れば、
「赤紙」が送られてくるのは、年齢的にいって、いまの子どもたちです。
そしてそのとき、泣きじゃくりながら子どもたちを戦地に送り出すのは、
実のところ、いまこの時代に生きている、政治や社会の動向に無関心な大人たちです。

いま、僕は40代ですが、この年代の責任は今後のことを考えると、やはりいまいちばん大きい。
子どもや孫をまず最初に戦地に送り出す可能性の高い年代だからです。

沖縄は来月、知事選を迎えます。
96年の少女暴行事件から10年。米軍や基地に対する反発感情とともに、
あの当時は、ひとりの少女を守りきれなかった自分たちのはがゆさ、
おこるべくしておこる基地というものを温存させていた自分たちの責任というものを
沖縄県民は真摯に考え、空前の規模の反基地集会を行動として起こしました。

ところが、あれから数年もたたないいうちに、
心の痛みを覚えた少女のことはどこかに消え、
あろうことか、あの事件をだしに「人権問題」を、
振興策という「金権」にすりかえ、
「もらえる金はいまにうちにもらっておけ」という風潮が
沖縄全体に跋扈するようになりました。
金にすっかりまみれきった沖縄。
あの少女のことを自分の娘と同じように考え、行動に移した
「沖縄の心」はいったいどこにいってしまったのでしょうか。

「沖縄の心」がまだ残っているのかどうかが、
今回の知事選はそのことが問われる最後の機会の選挙だと思います。  

Posted by 仲村清司 at 17:05Comments(13)

2006年10月23日

特報! これが我楽そば



皆さん、首を右に曲げてご覧あれ。
写真を回転させる方法を知らないのでこうなってしまいましたが、
これが、「くーすBARカラカラ」のランチに始めた、我楽そば。
いま、ずずいと麺をたくしあげたところです。

麺の色が少し色がくすんで見えるでしょう。これは数種類の小麦粉をオリジナルブレンドし、
一晩熟成させた証。しっかり噛むことによって、小麦粉の風味を味わっていただきたい。
そう考えた比嘉夫婦が時間をかけてつくりあげた色という言い方もできます。

だしの色は常連の小山裕士さんが撮ってくれた下の写真を見てもらえば一目瞭然。
ほぼ透明です。それでも、だしのコクと旨味はしっかりとでています。
これも時間をかけないとだせない色にして風味なんですね。

でも、その甲斐あって、これまで来店されたお客様のほぼ100%の人が、
最後の一滴までだしをのんでくれています。
17日にオープンしたばかりですが、すでに3回も通ってくれたお客さまもいらっしゃいます。
うれしいかぎりです。

このだしで炊いた「じゅうしい」も、薄味でとっても美味。
沖縄一透明なだしと、沖縄一コシの強い我楽そばは、実は沖縄一体にやさしい「そば」でもあります。
これを食べずして「すばじょーぐー」、「沖縄フリーク」」とはいわせませんぞ。

http://koyamay.iza.ne.jp/blog/tag/13790/  

Posted by 仲村清司 at 16:54Comments(19)

2006年10月17日

特報! 特報! 我楽そばオープン!!1



読者の皆さん、お待たせしました。
僕が皿洗い、グラス洗いをしている、
泡盛専門のレストランバー・『くーすBARカラカラ』で、本日よりついに
沖縄そばを始めることになりましたよん。

奇しくも本日は「沖縄そば」の日。記念すべき日の堂々グランドオープンです。

つーより、最初からそのつもりで「沖縄そば」狙ってオープンさせたのですが、
おかげさまで、午後12時58分に完売とあいなりました。 パチパチパチ。

手打ちの自家製麺のため、
いまのところ限定で30食しかお出しできませんが、
今後は徐々に増やしていくつもりです。

実はこれまで何度か試食会を開き、多くの方々の 意見やアドバイスいただきました。
試食会に参加してくれた皆さん、本当にありがとうございました。
ついに、この日を迎えることができ、感慨無量です。
それが、上記に掲載しているそば、名付けて「我楽そば」です。

この我楽そばを開発したのは、元カラカラの従業員夫婦、比嘉リュウイチとミチエ夫妻。
店でも人気者で働き者の二人でしたが、
沖縄そば出店の夢断ちがたく、
1年前に多くの人に惜しまれながら『くーすBARカラカラ』を退職。

以来、夫婦ともども、小麦粉、塩、ダシの研究を懸命に続け、
ついにオリジナルそばを開発するにおいたったのです。
しかも、二人の希望は、自分たちがお世話になった『くーすBARカラカラ』で
このそばを出したいというものでした。

うれしかったなあ。
二人の飽くなき努力と、夢を実現させたこと、
そして僕たちへの感謝の気持ちに対して僕は感動しました。
むろん、快諾です。

さて、肝心の味ですが、沖縄一あっさりしています。
そのため、コッテリ派はものたらないかもしれませんが、
日本一肥満県にあっては、沖縄一ヘルシーといえます。
カツオと昆布が主体の沖縄一透明感のあるだしが売りで、
本日のお客様は一人残らず、一滴も残さず飲んでいかれました。

麺は強いコシが特徴で、これも沖縄トップラスのコシ。
「歯ごたえ」どころか「アゴたえ」のある自家製麺です。
また、何百種類もある小麦粉を独自に配合し、独特の食感と風味のある麺に仕上げました。
麺の色がややくすんでいるのは、打ったのち、時間をかけて熟成させたため。
こういう色の麺も我楽そば以外にありません。
また、沖縄そば特有の気になる脂分も極力カットしているので、カロリーも低めで、ダイエット派にも安心していただけます。

はっきりいいましょう。
大手メーカーの油まみれの沖縄そばが好みの方、やわらかい麺が好みの方には向きません。
どちらかというと、コシの強い日本蕎麦が好きな人、
麺はコシと風味が命というものが、わかる人に一本一本しっかり咀嚼しながら、
食べていただきたい「そば」なのです。

ともあれ、まずは試食のつもりで、比嘉リュウイチとミチエ夫妻の成果を味わってみておいでください。


*我楽そば
●営業時間 11時半〜15時まで(ただし売り切れると、時間前に終了することもあります)
●日曜休
●098-861-1194
●久茂地病院通り、久茂地小学校裏  

Posted by 仲村清司 at 16:50Comments(18)

2006年10月11日

会津若松ちんたら紀行(その3)

大内宿は南会津に位置し、参勤交代の際は殿様もここの本陣で休息したという由緒ある宿場町。幕末、会津藩が京都守護職を命じられて出府したときも、藩主の松平容保は生きて帰れぬ覚悟でここに立ち寄ったにちがいない。

いわば会津西街道の要衝に当たる地なのだが、明治になってからは時代の流れから取り残されたように寂れ、その後はまさに陸の孤島のごとくひっそりと村人の暮らしが続けられてきた。

このことが結果として、昔ながらの江戸期の景観をそのまま残すきっかけとなった。旧街道沿いの両側に立ち並ぶ40数軒の家はほとんどが茅葺きで、正真正銘、時代劇のセットにできるかのようなたたずまいなのだ。

事実、NHKの大河ドラマ「新選組!」の中でもイメージカットとして使われていたから、時代劇ではたびたび登場しているのだろう。

この大内宿が脚光をあびたのは、かの有名な民俗学者の宮本常一氏が教え子によって、たまたま教えられたのがきっかけで、この経緯については司馬遼太郎の『街道をゆく・会津のみち』に詳述されている。

その後は、会津地方きっての観光名所として賑わい、景観を残すことで健全な観光地になった例としても知られている。沖縄でいえば竹富島がその例にあたるのだろうが、ともかくもこれからの観光地のあり方を考える上でもまことに貴重な集落でもあるのだ。

「いやあ、実にいい風情です。大内宿の人々はよくぞこの景観を残してくれたものです。ふむふむ」

と、僕は民俗学者になった気分で、偉そうにあごをさすりつつ集落をつぶさに見て歩いたのだが、その実、眼は集落の中ほどにある大和屋という民宿兼料理屋ののぼりに向けられていた。

そののぼりには「会津名物ねぎそば」という文字が染め抜かれている。そう、僕はここの「ねぎそば」を食うためにわざわざここまで足を運んできたのでありますね。

ねぎそばというと、誰しも日本そばの上に大量のねぎをどばっと散らしたものを想像するだろう。でも、そんな小手先を弄した細工だけで名物になれるほど世の中は甘くないのだ。だってそうでしょうが。沖縄そばの上にねぎをふつうの倍量散らしたところで、それが沖縄名物のそばといえますか? 名物と名乗るからには食う者をして「さすが」「なるほど」と唸らせるものでなくてはならない。果たして出てきた「ねぎそば」は誰もが「おお!」と驚嘆するそばであった。

そのそばには丼の上に直径2センチ弱、長さ20センチほどの白ネギが一本のっていて、なんとこのねぎを箸代わりにして食べるそばなのである。

つまり箸で食べるのではなく、ねぎ一本でそばをすすりつつ、なおかつ、そのねぎをかじりつつ食べろというわけでありますな。とはいうものの相手はナマねぎである。辛くて匂いも強いのではないかと思いきやさにあらず。肉質はやわらかくて味も甘く、そのままかじりついてもまったく問題ない。

このへんのところが一般のねぎとは違っている点で、まさにナマ食向きのねぎとしての品種になっているのである。しかも、会津は元々がそばどころ。しっかりとしたコシの強いそばもそれはもう美味でうまいのなんの。しかしこのそば、重大な問題点がある。

ねぎがあまりに美味いので、後先考えずにカミカミしているうちに短くなってしまい、箸としての用を成さなくなってしまうのだ。やってもらえばわかるけれど、5センチ程度にちびったねぎ一本でそばをすするのはまことにもって難しいものがある。

というわけで、この先どうやって食べればよいのだろうという問題にぶつかりながらの「そば食い」になったのだけれど、それはそれで人生哲学的に旅のよき思い出にはなったのであった。

●大内宿
http://www2.aasa.ac.jp/people/kanare/1603.htm
●ねぎそば
http://carlife.carview.co.jp/UserSpot.asp?TownInfoID=24923  

Posted by 仲村清司 at 19:27Comments(17)

2006年10月09日

必読!那覇一の宿泊施設はここ。この情報、必ず保存のこと。

沖縄に月1度以上のペースでやってくるN丸さんから以下問い合わせがありました。

「仲村さんは宿泊先のこだわりとかありますでしょうか。
ワタクシ事で恐縮ですが、よく宿泊するホテルが最近、満室の事が
多く、隠れ屋巡りの時、難儀しております。
今の那覇の宿泊事情などを御教示いただければ幸いです。」

あります! 自信をもってお勧めできる宿泊施設があります。
実はここも僕の隠れ家のひとつだっったのですが、公開しちゃいます。

その名も「壺屋ガーデンハウス」。

http://tsuboya-garden.com/eigyou/index.html

本来はマンスリー(ウィークリー)マンションですが、
いまのところは、一泊貸しもOKです。
実は、さる事情があって、友人に紹介してもらい、
僕もここに宿泊したのですが、まことに快適で部屋も広々。バスとトイレはセパレートタイプで、冷蔵庫はもちろん、キッチン付き。しかも、収納も余裕の広さ。
たとえば、シングルルームはこんな感じ。

http://tsuboya-garden.com/single/index.html

見取り図をみてもらえばその広さがわかると思いますが、
これでなんと一泊4500円から5000円。同クラスの料金のホテルとは雲泥の差があるといっても過言ではありません。

特筆すべきは敷地内の庭に御嶽があること。壷屋地域を代表する御嶽で、大きなフクギの木もあって、
実に静謐で清らかな空間が広がっています。
ついでにいえば、那覇の奥座敷、桜坂の飲み屋街も至近ですから、泥酔しても這って帰ることができます。
そして朝は歩いてこれまた歩いて至近の、平和通り、太平通りの食堂でメシを喰らう。
これも至福の一時ですな。

N丸さんを含めて、全ての読者のみなさんにはっきりいいます。いま、那覇でいちばんの宿泊施設はここです。
今度はぜひここをご利用ください。
そのさい、このブログをみたといってくださいね。スタッフの方々が百万ドルの笑顔を浮かべてくれるはず。


〒902-0065 那覇市壺屋1-13-19
TEL:098-863-7691
FAX:098-863-7692
予約は
E-mail:tsuboya-garden@rhythm.ocn.ne.jp  

Posted by 仲村清司 at 18:16Comments(12)

2006年10月04日

クサレヘッポコ頭からのお詫び

ブログを再開したところ、怒濤のような書き込みが続き、うれしい悲鳴をあげております。読者の皆様、本当にありがとうございました。

おかげさまで、沖縄スタイルで紹介された僕の隠れ家をさっそく訪れた人もいてくれて、こちらとしても感謝感激です。

「カラカラ」→「酒処はな」コースを訪ねてくれた東京在住の宮木さんたち、「しぃーぐゎー」→「酒処はな」を辿ってくれた仙台在住の鎌田御一行さま、ありがとうございました。加えて、内地の人では最もはやく全店巡回・制覇されたN丸様、お疲れ様でした。
店主もたいへん喜んでおりましたよ。これからもご贔屓に。次回はぜひ、全店制覇を目指してください。

と、ここまではよしと⋯⋯。

えー、日頃からアルコールにまみれ、クサレヘッポコ頭になっていた僕は、今ごろになって重大なミスをおかしていたことに気がつきました。

お気づきの方もいるとは思いますが、なんとわたくし、8月14日にアップした「会津若松ちんたら紀行」(その2)には続きがあるのに、それを書かずにほったらかしにしておったのです。
ちょうどその頃は小林万里子さんのライブがあったり、急遽、旅に出るなどして、身辺がバタバタしていたので、すっかり忘れていたのですなあ。
ど忘れもここまでくると、もはや犯罪的でありますが、遅ればせながら、次週からは「会津若松ちんたら紀行」(その3)に突入したいと思いますのでよろしく。

いやはや、思い出してよかった⋯⋯⋯。  

Posted by 仲村清司 at 13:28Comments(18)