てぃーだブログ › 仲村清司の沖縄移住録@2018 › 2005年11月

2005年11月29日

ニュースです!

このブログの左上に掲載されているワタクシの2冊の本が
アマゾンの沖縄部門で同時にベストセラー10圏内に入りました。

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/tg/browse/-/1056274/ref=br_dp_b_1_lf/503-7374209-7975942

これも皆様のおかげと、ひたすら感謝しております。ありがとうございました。

ちなみに、県内の書店の売り上げも好調で、
空港内の書店がランキング1位のほか、いくつかの店舗でもベスト5入りしています。

うれしいことです。書店の皆様、そして、読者の皆様、みんなみんなありがとう。  

Posted by 仲村清司 at 13:35Comments(7)

2005年11月29日

日本最西端ウルルン放浪記(3)

車は島の周囲を東回りで走っている。喜納昌吉さんの持ち歌にもなった東崎、見わたす限り亀甲墓がひしめく浦野墓地、島内で一番大きな祖納という集落、薩摩藩当地時代の悲しい伝説が伝わる久部良割といったところを一通り見て回った。

久部良割というのは、久部良集落の北のはずれにある岩盤の断層のこと。
岩は深さ7メートル、幅3メートルにわたって大きな口を開け、その昔、妊婦を集めてこの割れ目を跳ばせたというのだ。

島の史書には、「丈夫な妊婦は必死の勢いで飛び越えたであろうが、しかし心身の疲労は堕胎の原因となった。また虚弱な妊婦は必死の努力のかいもなく、奈落の底に転落して惨死をとげた」とあるが、陸上競技の選手でもないかぎり、飛び越えるのは難しそうである。


このような残忍な手段が遂行されたのは、琉球王府が宮古・八重山に課した人頭税が原因とされている。王府は薩摩に貢物を納めるために、納税をそれまでの石高制から人間の頭数によって割り当てる方法に変更し、離島の島民を絞り殺すほどの勢いで絞りつくそうとしたのである。

その結果、住民は奴隷以下の状態に落とされ、苛酷な労働を強いられることになる。が、血みどろになって働いても、納税額に達する収穫は容易ではなく、加えて、毎年のように発生する干ばつや台風が収穫をいっそう困難にする。

やがて、島民は限られた土地に限りなく人間が増加していくことを怖れるようになり、減税のために人口制限という方法を考えるようになったというのだが、島にはもう一カ所、人工調節の場となったトゥングダ(人舛田)と呼ばれる天水田がある。

ある日突然、ドラを鳴らして男達をこの田んぼに非常招集し、遅れて入れなかった人を惨殺したという悲惨な伝説が残る場所だ。トゥは「人」、ングは「罠で縛る」、ダは「田」で、すなわち、人を罠に縛る田である。

極限状態におかれた人間はときに想像を絶する行動に出るが、ともかくも、薩摩藩と琉球王朝による離島に対する二重支配は、島民たちをここまで追い込んでいたのである。

驚くべきことがもう一つある。この非道頭税が廃止されるのは、なんと明治36(1903)年になってからなのである。歴史的な出来事と呼ぶには、あまりに近すぎる過去の出来事というべきではあるまいか。幾たびも流血にさらされたであろう岩肌を前にして、僕はただ口ごもるしかなかった。(続く)  

Posted by 仲村清司 at 13:14Comments(0)

2005年11月22日

日本最西端ウルルン放浪記(2)

台湾は西崎展望台から北西〜南西にかけて約110度の角度に遠望できるというのだが、碧々とした空に下に広がる風景は茫漠とした黒潮の海とそのはての水平線のみ。見事なまでに、「天気晴朗なれど台湾は見えず」なのであった。
「おーし、こうなったら日没前が勝負だ!」と僕は虚空に向かって叫んだ。

あらかじめ調べた資料によると、台湾が見るのは「夏から秋、寒冷前線の通過後、淀んだ空気を吹き飛ばした後の夕方あたり」とあるのだ。ま、いまは、寒冷前線ではなく台風が接近しているのだけど、幸い、天気が崩れる気配はいささかもなく、季節もドンピシャ。時間をずらせば見えるかもしれない。

妻は「そうだそうだ。日本最西端の日没を見に来よう。ゲハハ」と、固く握った力こぶしを振り上げ、伊藤女史は「そうそう、今日なら絶対きれいな夕陽が見られるわよね。キャハハ」と、台湾とは関係のないところではじけている。
どうやら、二人は僕がいった意味を全く理解していないらしい。
「ま、それもありだな」と駐車場に引き返し、牛糞・馬糞をかき分けながら、一路、サンニヌ台へ。

サンニヌ台は垂直に切り立った断崖が階段状に波打ち際まで続く与那国でも最も有名な景勝地のひとつ。展望台に立った僕は、ある一つの地形を思い浮かべていた。

そう、1986年に発見された海底遺跡である。

テラスのように見える人工的なあの階段状の地形が、サンニヌ台の景観と実によく似ているのだ。そのため、海底遺跡はこのサンニヌ台と同類のものが海に沈んでできた自然物であると主張する人もいる。

そう思わせる理由はある。ここから西にわずか2・5キロ先の新川鼻と呼ばれる断崖の沖、約100メートルの海の下にあの海底遺跡があるからだ。

ただ、海底遺跡には人間が岩盤を加工したと思われる「矢穴(クサビ穴)」が多数あったり、文字らしきものが彫り込まれた石板も発見されている。しかも、興味深いことに、サンニヌ台にも人工の矢穴の跡が見られたり、古代の海洋民族・フェニキア文字とそっくりの文字が刻まれた岸壁があったりするので、僕みたいな素人にはハッキリしたことはいえない。

妻もあたりを観察しては、考古学者のようにアゴをさすりながら、「フム、こりゃアンタ、遺跡は自然物だわ」「いや待て、遺跡のテラスはもっと滑らかだから人工物かな」と、頭の中はいっこうにまとまらない様子。いずれにしても、サンニヌ台は誰もが古代の浪漫をかきたてられるような奇観を成して、我々の前に広がっていたのである。(続く)  

Posted by 仲村清司 at 16:01Comments(1)

2005年11月15日

日本最西端ウルルン放浪記(1)

さて、先月出かけた与那国島のお話しである。与那国島は海岸線のほとんどが断崖に囲まれた周囲29・5キロの島。台湾まで125km、石垣島まで127km。文字通り日本最西端のこの島には、1800人ほどの人たちが暮らしている。

今回の同行者は配偶者と、東京在住の編集者、伊藤女史。ワシらを乗せた39人乗りのチビプロペラ機RAC0889便は、定刻の午後2時40分、与那国空港にドスンと降り立った。

と、ここまでは予定通りだったのだが、急遽、この日のスケジュールを変更せざるを得なくなった。

なんと、我々がやってくるのを狙いすましたかのように、台風14号が与那国島直撃コースを進んでいるのである。しかも、予報によると、翌朝には暴風域に入るというではないか。つーことは、明日は民宿で丸一日足止めをくらうのは必至。てなわけで、急ぎ鳩首会談を開いた我々は、今日予定していた久部良散策を取りやめ、予定を繰り上げてその日はレンタカーで島内を一周することなったのである。

海岸線に沿って外周する道路は久部良、比川、祖納という3つの集落をつないでいる。2時間もあれば一巡りできそうな距離だが、その合間合間に西崎、新川鼻、サンニヌ台、東崎といった重点スポットが点在していて、ひとわたり見るとなると、それなりの時間が必要となる。


日暮れまで残された時間は4時間弱。日本最西端の民宿で素早くチェックインを済ませ、日本最西端のレンタカー屋で素早く車を借りたワシらは、日本最先端の西崎灯台に向かった。

しかし、車を走らせて5分も経たないうちに、立ち往生させられた。与那国島は牧畜が盛んな島で、島のアチコチで牛や馬が放牧されているだが、牧場主は放任主義をとってるのか、車道との境に鉄柵を設けていないところが多いのである。そのため道路は彼らの公道と化し、おまけに、車道にクソを落としまくっているものだから、スピードは控えめにならざるを得ない。

それにしても、圧倒的なスケールで広がる真っ青な大海原を眺めながら、膨大な量の牛糞・馬糞をバスンバスンと踏みしだきながら走るドライブというのは、なにやら妙にシュールな感じである。

西崎は空気が澄んだ日には台湾が見えるというのだが、さて、本日はどうであろか。台風が接近していることなど、まるでウソであるかのように、空は全面的に快晴。期待に胸をふくらませながら、車を駐車場にデポしたワシらは、急ぎ展望台に駆け上がった。(続く)  

Posted by 仲村清司 at 16:16Comments(1)

2005年11月08日

秋の夜長はヒーハヒーハ責めで一献

すっかり秋ですなあ。秋といえば読書の秋にして、食欲の秋。というわけで、その両方を楽しめる本を紹介しておこう。椎名誠さんの『からいはうまい』(小学館刊)である。
3年ほど前に出た本だが、何度読み返してもおもしろい。

内容を一言で説明すると、「人はなにゆえに辛味にこだわるのか。その謎と不思議を求めて、オトコばかり数人で旅をしながら、アジア極辛地帯に突撃した最新面白ルポ」ということになる。

本書では「韓国のキムチ」「チベットの唐辛子」「遠野のワサビ」「信州の辛味ダイコン」の4つの食べ物を文字通り体を張って食べ歩くのだが、なかでも韓国編は実に興味深い。

韓国はいまでこそ唐辛子大国だが、その唐辛子を伝えたのは、なんと日本だったのである。日本には1524年にポルトガル人によって九州に持ち込まれるのだが、1592年の秀吉の朝鮮侵略によって、朝鮮半島に持ち込まれ、これによって唐辛子は彼の地で勢力を増していったらしい。

ではなぜ日本にはそれほど普及しなかったのか。本書を読むと辛さには唐辛子に代表されるドライな辛さとワサビや生姜などのウエットな辛さがあって、日本人はどうやらウエットな辛さが合っていたらしい。また、ワサビや生姜に合う醤油の存在も、唐辛子が受け入れられなかった理由があるのだそうだ。

逆に朝鮮半島で広まったのは日本より寒かったこと、肉を多食する習慣があったことなどが考えられるそうだが、一気に普及した要因として忘れてならないのが、キムチという発酵食品の開発なのだという。

そのあたりの詳しいことについては読んでもらうしかないのだが、面白いのは韓国ではキムチを漬けこむ11月になると、キムチボーナスなるものが支給されるのだそうだ。給料の20〜30%というから結構な額といっていい。

なるほど、民俗の食文化はこういう形で受け継がれるのだなあとあらためて関心させられたのだが、この本では巻末で沖縄のコーレーグースについてもふれていて、食味研究家の小泉武夫さんがビールにコーレーグースを数滴垂らして飲む方法を勧めている。

僕もさっそく試してみたのだが、味が文字通りピリリと引き締まってなかなかにウマイ。中米には唐辛子の入ったチリビールというのがあるが、あそこまで辛くしなければ目先(舌先?)の変わったテイストになる。

わたくしごとだが、僕は刺身をワサビではなく、コーレーグースの唐辛子をつぶして食べるのが好みなのだが、与那国島では昔はこういう食べ方をしていたという話を聞いたことがある。

沖縄はワサビがとれない土地だから、考えてみれば沖縄もかつてはドライな辛さを好む食文化圏だったかもしれない。

ま、それはさておき、この本を読みながらキムチとコーレーグース和えの刺身をつまみにピリカラビールを飲むというのも、ヒーハヒーハ的にオツなものがありますから、皆さんもぜひお試しくだされ。
 









  

Posted by 仲村清司 at 15:37Comments(3)

2005年11月04日

特報!特報!特報!「こんなんでました」

世間の意表をつくかのごとく、新刊本を出しました。パチパチパチ
公式には11月10日発売なので、書店に並ぶのは今週末からだと思いますが、
ブログ読者には、この場をかりて、特別に先行告知させていただきます。

今回の本は、99年から05年までにアチコチの媒体で書いたモノをドーンと一冊にまと
めた、
いわば、わが移住録の集大成本です。
なので、移住まもない頃の初々しいエッセイがあったり、移住安定期に入った時期の
文章が出てきたり、
あるいはつい最近、このブロクで発表した記事もあったりします。

こういう寄せ集め記事をどう料理して、一冊の読み物に仕上げるのか。
実はこの手の仕事は、書き手(わたくしですね)はあまり関与しないものなんですね。
そりゃそうです。僕はすでに書きためていた原稿を編集者にわたせば、
仕事の9割が終わってしまうのですから。

では、誰が汗をかくのかといえば、むろん編集者です。
したがって、まとめる側はそうとう頭を悩ましたと思うのでありますが、
その仕事をやってくれたのが、伊藤かおるさんという人。
彼女は、いまでは僕の専属といっていいくらい、いろんな本を編集していただいたの
ですが、
実はあの大ベストセラー『沖縄オバァ烈伝』も伊藤さんが手がけた本。

すなわち、これまでの実績からいってもヒジョーに腕の立つ人なのです。
その彼女が、『沖縄チャンプラ亭』をどのように編集したのか。
出版業界人でなくても興味のあるところです。

というわけで、本日から何回かにわけて、
『沖縄チャンプラ亭』ができるまでの苦労話や裏話を語ってもらうことにしました。
題して、『短期集中連載・メイキング・オブ・沖縄チャンプラ亭』。

なので、皆さん、心して読んでくださいませ。
あっ、肝心なことを書き忘れてしまうところでした。
『沖縄チャンプラ亭』も、立ち読みや回し読みはせぜ、ちゃんと購入してくださいね。


仲村清司 著/双葉社刊
価格/1,365円(税込)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4575298522/qid%3D1131095646/249-019
5588-2372304



短期集中連載
『メイキング・オブ・沖縄チャンプラ亭(その1)』
伊藤かおる

「ところで伊藤さん、長年書き続けてきた各誌の連載の原稿が、
 かなり貯まってきているのではあるんですけどねぇ」

ことのついでに、仲村氏がポロリとこういったのは、
今年の5月、函館視察旅行で立ち寄った
駅前のうらぶれた喫茶店でだったでしょうか。

早い話が、「アンタ、編集者なんだから、まとめて頂戴よ」ってわけである。

モノカキというのは欲深なところもあって、
つまりは「一粒(原稿)で、二度おいしい」狙いなわけですね。

でも、これは実に正しい姿勢なのであります。
というのも、エッセイというのは、ひとつのテーマに添った連載でも、
1本1本が基本的には完結した文章になっているわけです。

それを取捨選択し、構成し直して、
(それにともなって、筆者の加筆作業も発生してくるわけですが)
1冊の「本」という形にしてみると、
これはまた「まったく新しい読み物」として
別の命を吹き込まれる感があるわけですね。

実は、こうした「連載を構成し直して本にする」という仕事は、
編集者にとっては醍醐味のひとつなのであります、フンッ(鼻息)!!

………………

「そいつぁー、ありがて。いっちょ引き受けましょう」と
答えたか、答えないかのうちに、
仲村氏からメールで、膨大な添付ファイルが送られてきました。

1996年、仲村氏が移住してから6年分の各誌連載原稿である。
(正確には、そのうちのまだ本に掲載してない分だけど)

編集者としては、
まずは原稿を全部読むところから仕事を始めねばならないのだけれど……、

ハッキリいって、出力するだけで丸1日かかりましたっ!!

ひとりのモノカキが、沖縄で暮らしながら体験し、
思考し、それを咀嚼して脱糞(失礼!)したもの6年分なのでありますから、
まぁ、当然といえば当然の量なのでありますが。

このなかには、香しいほどの秀作が何本もあるのですが、
週刊連載では、ときおり、
「この週さ、ずーぅっと酒ばっか、かっくらってたでしょ?」などと、
突っ込みをいれたくなるものもあったりいたします。
が、これが不思議なもので、
案外、そんな週に「酒飲み」についてグダグダと書いている
妙に肩の力が抜けた原稿がおもしろかったりしちゃうわけですね。

本を編集していくというのは、
読者と同じ目線で原稿を楽しみつつも、
もう一方で、「これをどう料理していこうか」と
考えながら原稿を読まねばならぬのです。

が、そう思いつつも、ふっと気づけば、
まったく読者と同じように、
「ウシャシャシャシャシャッ!!」と笑いながら原稿を読んでしまい、
「こんなことで、いったいいつまでに構成を決められるのだろう……」
と、途方に暮れたのが、夏の盛りの頃でございました。
(つづく)  

Posted by 仲村清司 at 19:03Comments(6)

2005年11月01日

隅に巣くうハジカサー二人

先日、与那国→黒島→石垣→東京という8泊9日間に及ぶハードな旅をしてきたのだ
が、今回は途中の7日間をすっと飛ばしていきなり最終日前日のことを書いてしまう。
この夜、僕は東京は新宿の駅ビル8階のホールにいた。ここで、『コーラルウェイ』
の100号発刊記念パーティが催されるのだ。『コーラルウェイ』とはJTA(日本ト
ランスオーシャン航空)の機内誌。離島便をよく利用している人はご存知のはずです
ね。
毎号、沖縄の島々をガイドブックをはるかに超えるクオリティの高い内容で紹介し、
それ自体が読み物としても資料としても使える大変中身の濃い機内誌。特集記事、コ
ラム、写真、デザインなどなど、どれをとっても完成度が高く、国内の機内誌の中で
は最もずば抜けたセンスを発揮している媒体だ。
以前、僕はこの『コーラルウェイ』に4年間、連載していたことがあり、その縁でこ
のパーティに招待されたのであった。しかし、会場に入るやいなや足がすくみました
なあ。
招待されたゲストは約80名。そのなかには、作家の椎名誠さん、嵐山幸三郎さん、足
立倫行さん、吉江真理子さん、写真家の垂見健吾さんをはじめ、各界で活躍している
著名人がワンサとおられるのである。こういう雲上人を前にすると途端に固まってし
まう僕は、ただちに会場の隅の隅へ。そうして、ゴキブリのように潜んでおったのだ
が、そこで僕と同じく隠れるようにしていたのが下地勇クン。そう、目下人気急上昇
中でメジャーデビューを果たしたあのイケメンミュージシャンである。
彼とは以前から懇意にしている仲。聞けば、このあと持ち歌を何曲か歌う予定とのこ
と。「だったらこんなところにいないで、皆さんと交流すれば」というと、彼は「い
えいえ、こんなエライ人ばかりの集まりに僕なんかとてもとても」「はずかしい、は
ずかしい」と、モジモジしながらそういうのである。
そういうことであれば、二人ここで仲良くずっと隠れていようとなったのだが、あろ
うことか、突然、僕に挨拶のお鉢が回ってきたのである。緊張のあまり、何をしゃべっ
たのか今でも思い出せないのだけれど、とにかく、体がガチガチになっておりました
わ。
舞台慣れしている勇クンはさすがに見事な歌を披露したけれど、歌い終わると逃げる
ように隅へ。そして、日陰者同士は二次会でも皆様に背を向けてカウンターの隅でヒ
ソヒソ語らいながら泡盛をチビチビ。こうして、二人は指定されたホテルに戻ったの
だが、奇しくも僕らの部屋は隣同士。部屋の位置はというと、11階のきっちり隅の隅
でした……。  

Posted by 仲村清司 at 15:11Comments(5)