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2008年12月31日

仏教がすきだ

いまでもそうだが、若い頃から僕には出家願望があった。

悪行の限りをつくし、なお煩悩と執着の大海を泳ぐ我が身に嫌気がさし、
そういうものから逃れたいという気分が消えないでいるのだ。

数年前、その思いが沸点に達して、「無我の境地を知りたい、そのお話だけでも聞かせてほしい」と、京都の大徳寺を訪ねたことがあった。
大徳寺は臨済禅の大本山のひとつで、一休や沢庵和尚ゆかりの寺として、また庭で有名な高桐院のある禅寺として知られている。

僕が山門をくぐったのは大徳寺の大慈院という塔頭である。
『街道をゆく』シリーズの
司馬遼太郎を案内したことでしられる名刹で、
僕が訪ねたときは副住職がお相手をしてくれた。

禅はいうまでもなく座禅を修行の根本としている。その意味を伺った。

「どんなに修行を積んだ賢者でも、座禅したところで悟りを得ることができないから座るのです。また、座ったところで、自分の外に何かの仏が見えるものでもありません。仏像は仏師が彫ったもので、仏は形ではなく機能です。ですから、姿に現れたり語ったりするものではありません。姿や声はまやかし、悟りどころか、悟りを邪魔する煩悩の最たるものです」

「禅の世界では仏は人の心の中にあるとされます。まっすぐ深く自分を内観すれば自分の中にある菩薩をみる。むろん形ではなく、仏と一体化する感覚のようなものです。これが悟りの境地です。でも、その境地はほんの一瞬で、悟りをえたと感じたときに悟りは消えてしまいます。だから、座り続けるのです。座禅はその境地を得るのがいかに難しく、不可能に近いことかを身も持って知る修行といっていいでしょう」

では、座る意味がないのでは問うと、

「座禅はありのままをみるものです。その世界に打ち込むとありままの世界や当たり前の世界がいとおしくなります。虫一匹も大切に思えるし、木の葉から土にこぼれ落ちる雨粒の一滴を目の当たりにして、生態系の成り立ちを瞬時に理解することもできます。私はふだん何も感じない思わない雨粒の一滴を見て、その大いなる営みに感動し、涙したことがあります。座禅を続けて本当によかったと思いました」


深い言葉だと思った。そしていかに自分がまやかしの世界や地獄の世界に翻弄されているかを知った。地獄も極楽も自分の外にはなく、地獄と浄土は本当は自分の心の内にある。仏教では地獄や極楽は方便にすぎず、座禅すら方便であることを知るために禅僧は座り続ける。

なればこそ、心の奥の視線を磨かねばならない。
以来、僕は深遠なる仏教の世界にますます惹かれ、毎年大徳寺を訪れている。

さて来年はいつあの凛とした甍の波を見ることができるか、いまから楽しみにしている。



  

Posted by 仲村清司 at 12:29Comments(3)

2008年12月14日

超一流と三流の差

自分の人生が有限のものであり、残りはどれだけあるか、
こればっかりは神様でなきゃわからない。

この簡明な事実をなにかにつけてふっと思うだけで違ってくるんだよ。
漠然と考えるだけでいい。それだけで違ってくるんだよ。

そう思えばどんなことに対してもおのずから目の色が変わってくる。
逆にいえば、人間は死ぬんだということを忘れている限り、
その人の一生はいたずらに空転することになる。

時間というものは刻々と自分のまわりを通り過ぎていく。
20年なんてわけないんだから。

子どもの時代から20歳ぐらいまでは長く感じるんだ。
時間は年を重ねれば重ねるほど短くなっていく。

だからこそやるべきことをやっておかないとだめなんですよ。
人生は一つしかないんだから。

張らねばならぬ意地もあるけど、こりゃ並の人間なら誰だって張れる。
本当は捨てねばならぬ意地をいかに爽やかに捨てられるかどうかなんだな。

上質な生き方をしている人間は、
つまり超一流とよばれるやつはそれができる。
オシャレだって人に見せるためだけでなくて、
超一流は自分の気分を引き締めるためにやるんだよ。
人間の器が広いんだよ。だから単なる一流ではなくて超一流なんだ。

逆に意地ばかり張ってる人間は器が狭い。
こういうやつに限って身銭の切れない三流の人間。
そこが人間としての差なんだなあ。

50年も生きてたらそこのところに歴然と差がついてくる。
超一流は生きる作法が身に付いているから、死ぬまで目の色が違っている。
当たり前だよ、超一流はこのままで終われるかといつも切磋してるからね。

そうでない人間は、いいたくはないが………、
50歳にならないうちに、もう目が死んでるね。

いらぬ意地を張り続けた人間と、
己を成長させるためにいらぬ意地を捨ててきたやつの差だね。

どんな人間だって超一流になれるのに、
捨てて得られるはずのチャンスをどれほど取りこぼしているか、
この年になるとよくわかるんだなあ。

*上記は池波正太郎氏の語りおろしをまとめたものです。
早い話が「人間の磨き方」ですね。
さすが池波先生です。
『鬼平犯科帳』の火付盗賊改方長官・長谷川平蔵はこうやって生まれたのですね。ダンディです。  

Posted by 仲村清司 at 02:11Comments(4)

2008年12月03日

恋物語にふける中途覚醒者




中途覚醒者は今朝も5時前に目が覚めた。
零時過ぎに床に入り、
『めぞん一刻』を読みふけっているうちに眠りに落ちたようだ。

寝床で読むのは司馬遼太郎の講演集が多いのだが、
なぜか昨夜はコミックに手が伸びだ。

沖縄に移住するときに大量の本を処分したが、
コミックでは『めぞん一刻』と『カムイ伝』だけは全巻捨てずに持ってきた。
生涯の蔵書になるだろうと確信したからだ。

とりわけ、『めぞん一刻』の主人公の
音無響子さんは僕にとって永遠の憧れの女性なので、
手放すわけにはいかなかったのだ。

思うに『めぞん一刻』を初めて読んだ頃から二十数年経っている。
ということは、彼女が実在の人物であれば47〜48歳ということになる。
再婚した五代との間にはすぐに春香ちゃん女の子ができたから、
いまや大学生あたりの年齢になるはずだ。

そうかあ、なるほどそういうことであるのだろうなあと、
なにがそうなのか、よくわからないままに中途覚醒者の妄想は始まる。

桜の花びらが散る中で響子さんが春香を抱いているシーンがあるが、
顔立ちは母親似である。

きっと綺麗な女性になっているに違いなく、
素敵な恋もこれから何度も体験していくことだろう。

思えば、夫の五代は浪人生のときに、
管理人として一刻館に住み込んだ未亡人の音無響子さんに一目惚れしたのであった。

足下に春風が舞っているように爽やかな響子さんと、
なにをやらかしても優柔不断で頼りない五代。
そんな2人は足かけ6年に近い歳月をかけて紆余曲折しながら、
春たけなわの時期にめでたくゴールインする。

いま書きながら気づいたが、
この物語は出会いも結婚も出産も春だった。

すべての山場を春に設定しながらこのドラマは
進行していたというわけだ。
そうして2人の子どもは春香と名付けられて、物語は幕を閉じる。

さすが高橋留美子さん、うまいなあとしみじみ感心させられるが
忘れられない名セリフが巻末にある。

亡くなった響子さんの前夫のお墓の前で五代はこうつぶやくのである。

「正直言ってあなたが(前夫の惣一郎のこと)ねたましいです。
遺品返したところで響子さん・・ 絶対あなたのことを忘れないと思う。
・・忘れるとか・・そんなんじゃないな・・
あなたはもう響子さんの心の一部なんだ・・
だけどおれ、なんとかやっていきます。
初めて会った日から響子さんの中に、あなたがいて・・
そんな響子さんをおれは好きになった。
だから、あなたもひっくるめて響子さんをもらいます」


その響子さんは、まさか、五代が惣一郎の墓参りにきていたとは知らず、
偶然その言葉を陰で聞いてしまう。
そうして胸の内でこう語るのだ。

「惣一郎さん・・あたしがこの人に会えたこと喜んでくれるわね」

亡き夫への思いを断つ瞬間だが、
このシーンを初めて読んだとき、僕は泣いた・・・。
泣いて、泣いて、泣かされた。

いまでも胸が熱くなる場面だが、
響子さんが五代のプロポーズを承諾するときのセリフも忘れられない。
結婚してまもないうちに前夫と死に別れてしまった
響子さんに作者はこんな言葉を与えているのだ。

「ひとつだけ約束・・・守って・・・。
お願い・・一日でいいから、あたしより長生きして・・・
もう一人じゃ、生きていけそうにないから・・・」


詳しくは書かないが、
思いを寄せた人の突然の死ほど辛くて、あとを引きずるものはない。
それでも人は恋をする。むろん、うしろめたい気持ちはぬぐえない。
しかし、人はどうしようもなくまた新たな恋と出会っていくのだ。
その意味でこの短いセリフは、
実に深くリアルに人の心の内を活写している。

いかんいかん、書きながらまぶたの裏に熱いものがこみあげてきた。


さてはて、2人の愛娘・春香ちゃんはどんな人とめぐりあい、
どんな恋をしていくのか。
恋愛小説仕立ての物語にすればきっといい作品になるはずだ。

・・・と、直木賞を密かに狙う中途覚醒者は
赤みがさす那覇の夜明けの空を眺めながら、
またもや妄想にふけるのであった。

  

Posted by 仲村清司 at 08:26Comments(11)

2008年12月02日

中途覚醒者の妄想

夜中の2時に床につき
そのままぐっすり眠ったまではよかったけれど、
4時半に夢の中からフイに目が覚めた。

夢の中の僕は東京のアーケードのある商店街をカメラマンと編集者と歩いている。
ある店の主人を取材し、僕が原稿にまとめるという設定だ。
ところが、その店がなかなか見つからない。
場所は商店街の中にある中華料理店の隣にあるらしいのだが、
それらしき中華料理店が見あたらないのだ。

そもそもどういう店を取材をするのかも知らされていないので、
事前知識のない僕は不安にかられている。

(このまま店が見つからなければいいのに・・・)

胸の内でそんなよこしまなことを考えている自分がいる。

とそこで、先を歩いていたカメラマンが前方を指さして手招きをしている。
「ほら、あの中華料理店じゃないですか」

のれんに見覚えがある。
東京の飯田橋の高架下にあった「たかはし」というラーメン屋で、
いつも行列のできることで有名な店だ。

(いつのまにアーケード街に移転したのだろう。そういえばこの店、入ったことがなかったな。でも、取材するのは「たかはし」ではなく、その隣にある店のはずだ。店構えの雰囲気からしてどうやら金属部品を扱う商店のようだが、シャッターが下りている)

いったいどうなっているんだろう? 
煩悶しているうちにどんどん加速度的に不安が募り、夢はそこで覚めた。

外はまだ漆黒の闇がたれ込めている。
そうして、中途覚醒したことをようやく理解したのだった。

夢の意味合いを考えたがよくわからない。

このところ、中途覚醒することが多く、いったん目が覚めてしまうと寝付けなくなる。

ぼんやりした頭の中で、
中途覚醒者の専門のカフェがあれば面白いなあと考える。
払暁、常連の中途覚醒者が集まり始め、カウンターでおしゃべりしている。

「今日は朝刊が入る前に目が覚めましたよ」
「ということはいつもより15分ほど早いですか?」
「そうですなあ。新聞でもあれば時間がつぶせるのに、その15分が待てずにここにわざわざやってくる。そうして、この店で新聞を読んじゃうのだから、なんのために新聞とってるのかわかりゃしない。本末転倒ですなあ。ワッハッハ」
「そう、いっそのこと家では新聞なんか購読しなけりゃいいのですが、なんだかそれもおちつかないし。困ったもんです。中途覚醒者ならではの大いなる無駄というやつですな」
「いや、まことにおっしゃる通り。ワッハッハ」
「今日は時差出勤で10時始業なんですよ。二度寝できるならまだしも、中途覚醒者はそれができない。なにして時間をつぶそうかと、いま考えている最中なんですよ」
「そうですか、それはたいへんだ。あたしゃ早出だから、ここでトーストでも食べて、会社まで電車に乗らずにウォーキングがてら一時間ほど歩けばちょうどいい時間に会社に着けるんですがね」
「そりゃまた、健康的な中途覚醒者ですな」
「いわれみれば、そうですな。実際、一汗かくと体も心地よい疲労感につつまれるし、おかげで勤務時間はぐっすり眠れるんですよ。ワッハッハ」

・・・・・、
などという脳天気なヨタ話を考えているうちに夜がすっかり明けた。
本日の那覇は快晴です。

さて、この中途覚醒者はなにをするべえか???





  

Posted by 仲村清司 at 12:33Comments(4)